のま果樹園物語

昭和8年に愛媛の小さなみかん農家からスタートしたのま果樹園。時代の波に翻弄されながらも堅実に着実に歩みを進め、そして時には最先端を取り入れることで皆様のご支持をいただき、少しずつながらも成長を続けてきました。

大正13年英男誕生

大正13年3月28日、愛媛県今治市の静かな山間の集落で、6人兄弟の長男として「木原英男」は生まれました。水田や野菜畑、山林などが主な収入源であった当時、周辺ではみかん栽培の導入が始まっており、昭和8年に英男の父「佐一」も3反ほどのみかん畑を持つことになりました。これがのま果樹園の始まりとなります。

父の畑を継ぎみかん農家となる

16歳になった英男は埼玉県川口市で生活耐久財や着物などの販売を行う店員となりましたが、戦火の拡大による徴用で軍需工場に勤めた後、徴兵された満州で終戦を迎えました。

昭和20年、22歳で愛媛へ戻ると、食糧不足であった時代背景から、やがて世間の経済的水準が上がってくれば果物の需要も伸び、産業として栄えるのではないかと考え、父が持っていたみかん畑3アールを引き継ぐことにしました。

みかん園の規模拡大と独自販売の決断

みかんの栽培にも慣れてきた27歳の頃(昭和25年)には、英男はこれからの農業には規模の拡大が必要だと考え、水田や野菜畑などとの統合・交換などを行うことで徐々に園地を広げていきます。昭和37年には1.8ヘクタール、昭和44年には構造改善事業により山林を造成し3町(3ヘクタール)のみかん園となりました。父がみかん作りを始めた頃からすると約10倍の規模です。

また当時、地域農業の世話役を行いながらみかん栽培をしていましたが、昭和46年頃にはみかんの生産量は全国的に大幅な増加を見せており、このままでは相場の安定が望めないだろうと思われました。そこで、市場相場に左右されない自主販売ルートの構築が必要だと考え、組合の脱退を決断することになります。

株式会社乃万青果設立

昭和47年から自力での販売を開始したところ、予想通り全国のみかん生産量は360万トンにまで膨れあがり(現在が約77万トンなので約5倍)、生産過剰となったみかんの市場相場は大暴落してしまいます。そこで翌年(昭和48年)に株式会社乃万青果を設立し、会社組織として個人農家の枠を超えた本格的な販売ルートの構築に乗り出しました。

すると、乃万青果の販売に活路を見いだした今治市近辺の多くのみかん農家から売り込みが殺到。会社を設立したばかりにも関わらず、約100軒もの農家から委託販売を請け負うことになりました。

選果場の運営とエリアの拡大

そうなってくると、やるべき仕事は販売だけに留まらず、農家から集荷したみかんを大きさや品質によって選果し箱詰めして出荷する「選果場」を運営する必要性も出てきました。

今と比べると規模は格段に小さく零細な選果場でしたが、狭い地元だけでは集まるみかんの種類・量に限りがあり、選果場を効率的に運用するため、昭和55年までには愛媛県内主要産地である松山・八幡浜・宇和島などにも集荷の拠点を広げ、安定した供給のための体制を整えました。

おかげで朝の6時から晩の11時まで働き通しという生活がしばらく続きましたが、慣れてしまえば辛さは感じず、それよりも自分たちで生産から販売まで一貫してやれる面白さの方がまさっていました。

品質の安定と向上へ

いよかん、清見タンゴール、デコタンゴールなどをはじめ、生産品種が多いのが愛媛県の特徴で、近年も優良な新品種が続々と誕生しています。英男は自社農園の運営と生産者への対応を担当するかたわら、新しい品種の生産技術の研究を進め、その普及と生産指導、品質の安定と向上に努めました

新たな取り組みと未来へ

そして現在は英男の息子「洋文」のもと、全国の卸売市場への出荷とともに、のま果樹園のブランドで通信販売やネット販売の拡大も進めています。また、取扱量の増大に伴い、選果システムや販売・仕入・在庫管理システムも開発・導入し、技術の進化に合わせて改良を加えながらお客様のご要望にお応えできるよう運用しています。

それらひとつひとつの小さな積み重ねを続けてきたことで、のま果樹園(株式会社乃万青果)は多くのお客様のご支持をいただくことが出来るようになりました。今後もその信頼を裏切ることなく、ご家庭で安心して愛媛のみかんを美味しく召し上がっていただけるよう取り組んでまいります。